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稲の実のみのる国。庄内平野の9月。

今年は6月まで全く来なかった台風が、7月を境に8月、9月と急にたくさん来るようになり、大事な登熟期(とうじゅくき)なのに大丈夫かと東京に居て、気をもんでいましたが、現地の農家からは「平気だよ」という連絡ばかり来て、彼らの気象の見立てと度胸を尊重しなければと自分自身にいいきかせて、収穫の時期を待っているこの頃です。

庄内は今まさに、米の成熟の時期です。田んぼによっては既に稲刈りが始まっているところもあります。出羽庄内特産の稲刈りが未だなのは、有機農法や特別栽培という農法のせいなのか、圃場の特性なのか、今度また聞いてみようと思います。

庄内平野の田んぼは、キレイに色づいています。実りもいいようです。伝統的な杭がけ(くいがけ)という方法で天日干しする景色も眺められるようになりました。 イナゴもアカトンボも、個体としてのやることは全てやり終えて静かに、彼ら固有の時間を、時代を、諦観しているかのようです。

庄内人の気立て

古来、食料の豊な土地は争い事も少ないし、人心穏やかと言えるのではないかと思います。
これまでの間、随分多くの庄内の方々に会う機会を得ました。農家、漁師、料理人、店主、公務員、宿坊主。彼らは、初対面の人間を、非常にしばしばノーアポで訪ねてさえも、百年の知己のように遇してくれます。彼ら同士でもそうです。親しそうに話しているので、「長いお付き合いですか」と尋ねると、「いま知り合ったばかり」だと。
最初はびっくりして戸惑ったものですが、だんだんそれに順応して「郷に入っては」とばかりに、懐に飛び込むようになりました。

彼らはいわば「開いた身体」をもっている。それに対しこっちは「閉じた身体」である。開いた身体というのは、オープンマインドというのではなく、もっと身体的な感覚です。 彼らは、始めて会おうが、そもそも人を見る眼が最初から温かい。こちらは、所属や立場をつまびらかにしてからでないと話もできないのに。この違いは何でしょう。

中谷宇吉郎「雪を作る話」の冒頭の文章に、次の一節があります。
「われわれは大きい自然の中で生きている。この自然は、隅の隅まで、精巧をきわめた構造になっている。その構造には、何一つ無駄がなくて、またどんな細かいところまでも、実に美しく出来上がっている。」
この文書を読んではっと思いました。庄内の人々の気質の根っ子は、これなんじゃないかと。彼らは、住む人も来る人も、この大きな自然の中で生きていて、自然の一部であって、かけがえのない仲間なんだという感覚を生来のものとして持っているんじゃないかと思った訳です。我々は会社とかの組織に属していますが、きっと彼らは、我々が皆んな、もっと大きなものに、普遍的なものに属していることをよく知っているのです。

私たちは、地域のポテンシャルを解き放てと言う。
そういう私たちは、大きな仕事にあこがれるばかりに、世界中の見たことも会ったこともない人々と付き合わなければなりません。そうすると、契約は微に入り、取引は細を究めます。その見返りは大きいが、いろいろ犠牲もある。このやり方ではここでは仕事は出来ない気がします。ここらで温故知新。ちょっと違った行き方も試してみたい気がします。

タクトを田んぼに

庄内は自然の実りのゆたかな土地です。人は競るより和して生きる知恵を持ち続けているように思います。そういう庄内に、そこはかとなく惹かれる人は多いと思います。 今、都市は大きな購買力を持って、農村の重要な顧客として君臨しています。
サプライチェーンの上流には農場があって、ここから加工場、倉庫やトラック、市場や卸、そして下流の店頭まで、サプライチェーンが一本のロープのようにつながっていて、店頭では、消費者が「いつでも何でも低価格で」購入できることを知っています。そして流通経路のどこかにタクトがあって、このタクトに合わせて、注文が出て、農産物が収穫され、出荷され、消費者の手許に届きます。
でも、農産物は色々言ってもやはり自然の植物、生き物なんです。旬があるし、不作の年もある。それを「いつでも何でも低価格で」というのは、過度な要求のような気がします。そういう要求に応えようとすると、人工のものを持ち込まざるを得なくなる。それでは、「隅々まで精巧で、緻密に美しく構成されている自然」に与える影響が大きすぎないか。 「合理化」とは「判っていないこと」を勘定から外すことであり、「効率化」とは消耗と死期を早めることだとすると、その結果、自然のバランスを崩し、食料生産に支障を来たすことが、そんな遠くない未来に起こるのではないかと恐れます。

野生の生物なら種の存続のために個体が死んで飢えを回避することもありましょうが、人間はそんな荒業に打って出る訳には行きません。そうであれば、せめて植物、生き物たる農作物の都合に合わせて、ロープの引き方を優しくしてもよいのではないでしょうか。
もし、この田んぼがなくなれば、その跡地はまさか荒野にするわけにもいきません。では、畑か公園、それとも建物や工場にするのでしょうか。ちょっと想像がつきません。
タクトを田んぼに戻す。そういう気持ちを強く感じた、今回の庄内行でした。

水の流れ

ところで、稲刈りの始まる頃は、田んぼの周囲の水量が随分と減っています。これは、例年かどうかはわかりませんが、遙か水源の近くに人が行って、水路に流入する水を堰き止める作業を行った結果です。何人もが山道を行き、石を水に落とし込んで水を堰き止める。山深い水源近く、人が夏に水を引き、秋に水を止める。そうやって水を管理し、稲作が代々継続されてきたのです。こういう努力を農家の方が知っているかどうかはわかりませんが、ただ感じ取っていることだけは確信が持てます。そうでないと、競るより和す暮らし方は出てこないと思います。
今回、秋の田圃のきわに、ささやかな水の流れがあったので、カメラマンがその流れに沿って、上流と下流に歩きました。

一級河川である赤川と、かの最上川に注ぐ藤島川、更にその藤島川の支流で月山山麓を源流とする今野川(こんのがわ)に挟まれて、出羽庄内特産の近傍は水系が充実していることがよく分かりました。
水は、日本では幸いにも、日常ありふれたものなので、つい看過してしまいがちですが、水には、何でも溶かし、どこへでも流れ込んでいくという注目すべき性質があります。科学者に言わせるとこれは非常に特別なことなのです。水は分子量が空気より小さいような物質なのに常温で液体である。そして色々な物質をよく溶かす。これが水の二大特性だそうです。 その水が、農家の近傍の圃場を網の目のように、まるで細胞の周囲をめぐる血管のように経めぐっていました。水は水田にいろいろ栄養を運び込み、また水田から無用の物質を運び出しています。

日本は資源がない国だと言われるが、水だけは豊富にある。しかもかなりの量が雪になって高山の上に積もっている。これは既に高い位置エネルギーを持っていることになる。だから庄内平野も、高いポテンシャルの水を後背地に持っていると言えるのです。
ゆっくり歩くと見えてくることがある。
このあたりの経緯は、「庄内Life Village Report」で最初に取り上げるテーマです。

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