父の代から取り組んできた「土づくり」への想い。
月山パイロットファームが創業したのは1977年のことだ。1970年代まで続いた高度経済成長は、第一次オイルショックでいったん収束はした。だが、大量生産大量消費という産業の構造は、すでに全国の農業にまで及んでおり、もちろん状況はここ庄内でも同じだった。有機リン剤や有機水銀剤をはじめとした農薬の「効能」によって、「稲しか生えていない不気味な世界に変わった」と、相馬氏の父・一廣氏は、月山パイロットファームのHPの中で回想している。メダカも、ドジョウも、ヤゴも、タニシも、ゲンゴロウも、フナやナマズの幼魚も、きれいな水草さえも消えた故郷の風景に、一廣氏は何を思ったのだろう。同HPには「生物層はすっかり単純になり、豊かな自然は失われてしまった」という記述もある。農業の合理化と引き換えに、生物の多様性は失われてしまったのだ。息子である相馬氏は、無農薬の有機農法に乗り出す父の姿を見ながら育った。「当時の私はまだ小学生でしたが、庄内地方だけでも年に2〜3人の農薬による中毒死者が出ていることは聞いていました。疑問を持つ農家も少なくなかったはずですが、かといって有機農法をはじめるなど、誰も考えていない時代です。父は変人扱いされていましたよね(笑)」。
農薬も化学肥料も使わない。だが、開墾した土地は肥沃とは真逆の「グラウンドのような」場所だったという。「養分もほとんどなく、トラクターの爪が入らないほど固い土で、植物が育つ細かな土になかなかならない。だから、種の大きなジャガイモしか植えられませんでした」。だが、ようやく収穫時期を迎えてもサイズは流通標準の半分以下。卸先の生協、そしてその先にいる生活者が有機農業を育ててくれたのだと、相馬氏は感謝とともに述懐する。
飼っていた牛の糞を元にした堆肥を大量にトラックで運び込み、何年もかけて「グラウンド」を畑に変えてゆく日々。在来の温海かぶ、白菜にはじまり、野菜と呼ばれるものは何でも試した。少しずつではあったが、土が変わり、作物の生育が良くなっていくのが分かったと相馬氏は語る。