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商船の拠点でもあった酒田。出入りの多さが育んだ文化。

海に関連して、やはり触れておくべきことのひとつとして、北前船がある。北海道から日本海を通って、敦賀、門司を経由し、瀬戸内海に入って大阪へと至る西回り航路の貨物船のことだ。江戸中期から明治後半までの間、絶えず運行していた北前船は、「動く総合商社」と呼ばれるほどあらゆる物資を積載し、各地の商業を育てた。庄内・酒田もそのひとつだ。米の保管庫として酒田港のすぐ脇に建てられた白壁土蔵づくりの山居(さんきょ)倉庫は現在でも現役で使用されているが、出航前に天候を観察した日和山(ひよりやま)や、灯台の役割を果たした常夜灯、方角石など、当時、北前船の航行に貢献してきたスポットやアイテムがいまも酒田には残っている。

「酒田の名産品として、北前船には大量の米が積まれました。戻ってくるときには食品などのほか、石や瓦も載せていたようです」。そう解説するのは本間美術館の事務局長・清野誠氏。「船の安定を確保する重りの意味もありましたが、それらは商品でもありました。伊予の青石、福井の笏谷石(しゃくだにいし)、越前の赤瓦など各地の銘品が酒田にもたらされたようで、現存しているものも市内に数多くありますね」。そして、海の神を祀る善寳寺の信仰は、北前船を通じた各地との交流の中で、全国的に広まっていくのだ。

酒田の武士は江戸の影響を受けて、江戸弁混じりの庄内弁を喋ったという。一方で、関西との交易があった商人たちは京都弁混じりの庄内弁を喋った。少なくとも商人界隈では、品々の出入りが多かったことを受け、文化的にも「来るものを拒まず、去る者を追わず」の精神が染み付いており、冗談のようにも聞こえるが「離婚した人が住みやすい場所」という見方もあるという。

それにしても、水とはいかにも不思議である。山に雨や雪が降り、それが地下水や川となって里へと注がれ、やがて海へと流れる。そして海水が蒸発し空へと登り、雨や雪に姿を変えて再び山に降る。その悠久のサイクルの一部分を頂戴するかたちで、農業も漁業も商業も発展してきた。水とのバランスが崩れれば、農家なら「食を失う」、漁師なら「命を失う」、商人なら「金を失う」。各々の立場で、各々に水との距離感を保ってきた庄内の人々。
佑成氏は手元のスマホを眺めながら、船を陸に向けて発進させる。「観天望気なんて言うけど、いまの時代は情報社会でコレがあっがら、観天望気はいらねな(笑)」。あっけらかんと現代のデジタルツールに身を委ねる佑成氏。「んだけど、魚が漁れっがどうがはアヤ次第。技術が半分、運が半分」。笑顔だった佑成氏は視線を海にやる。その眼光は直前とは打って変わって、再び鋭さが戻っている。

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