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けれども、大荒れの海の中、釣果は絶好調だった。釣り糸を手繰り寄せるたびに、50〜60cm級のサワラが次々に水中から姿を現す。その銀色に輝く魚体の頭部に刃物を入れ、神経締めや血抜といった処置を手早く施す佑成氏。この独自の技術が鮮度を維持し、庄内のサワラを全国区にしているのだ。「んだけど、昔の庄内ではサワラなんか漁れねがったんだ。温暖化の影響で魚が北さ来ったなや。逆にスケトウダラなんかはいまは漁れねぞ」。いまのところ全体としての水揚げ量には変化はないが、上がる魚の種類ははっきりと変わってきているのだと佑成氏は語る。
庄内は水をひとつの媒介にして、山の恵み、田の恵みに満たされてきたエリアだが、歴史を振り返れば、海からも多大の恩恵を得てきた地域だとも言える。たとえばその代表格が、ニシン漁で財をなした青山留吉だろう。1859年、庄内出身の青山は24歳で単身、北海道の漁場へ渡り、やがて漁船130隻、使用人300人を抱える道内有数の漁業家として知られるようになる。国指定重要文化財として現在も遊佐に保存されている旧青山本邸は、庄内人から「ニシン御殿」とまで呼ばれた。
佑成氏は飾る素振りもなく「単純に漁師なら稼げると思った」と言うが、大海原に出て魚を漁るということは、命を危険にさらすことと引き換えに富を得ること。山や川から「水」を人為的に引き入れ、受け入れることで自然と共存する農家と比較すると、その生き様はまったく異なる。漁師はむしろ、破壊力や圧倒性を孕んだ「水」に己の方から踏み出し、自然に挑んでいく仕事だとも言える。「水」との接し方がまるで違うのだ。同じく自然を相手にし、そして同じく水に関わりを持った生業でありながら、ここまで異質である理由は、太古の昔に、まず狩猟採集を主軸とする漁民が出現し、その後に農耕を行う農民が出現した、その発生順の違いに由来するのかもしれない。佑成氏をはじめ、漁師たちの語気の強さの裏側には、「脅威の海」に立ち向かう勇敢さを感じる一方で、強靭な肉体と精神力をもってしても尚、そこに厳然とある畏れの気持ちが色濃く表れている。「これまで2回ぐらい死にそうさなったごどもある」と佑成氏は語るのだ。