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先人の苦労が、努力が、いまの庄内を潤している。

歴史をさかのぼってみると、確かにずいぶんと早くから、庄内の農家の間では民主的な取り組みが導入されていたようだ。たとえば、庄内赤川土地改良区に残っている資料によれば、「番水」と呼ばれる、順番にそれぞれの水田へ水を引く制度があった。最古の記録には1681年とあるから、すでに300年前には特定の農家だけが利益を得ることを防ぐ「自治」があったことになる。

「庄内の水利について語るとなると、『堰』は無視できません。越中堰、天保堰、明治堰といった先人たちが築いた財産がいまでも残っていますし、その血のにじむ努力は語り草のようになっています」と佐々木氏は言う。越中堰は1702年に開削された用水確保のための施設だが、完成までには11年もかかったという。天保堰は1837年の完成で、傾斜が厳しい山中での工事には、毎日千人もの農民が駆り出された。上述した「手洗沢円筒分水工」は、この天保堰から引かれた水を分水しているから、まさに180年近くの時を超えて、文字通り庄内の人々を潤していることになる。

これら堰の管理をしていた組織が、時代を下って現在の庄内赤川土地改良区に至っている。「『我田引水』という言葉がありますが、これは身勝手な行為を戒めるという意味があります。もちろん盗水や水をめぐる争いが皆無だったわけではありませんが、『みんなで分け合おう』という意識は深く根付いていた地域なのだと思います」。太古の昔には、もちろん自然物に所有者などはいなかった。人が定住し、そこで農業が育まれることで生じた、自然資源の使用権問題。争いを避け、不平等の温床を除去するためには、「話し合い」という、現代人がいま蔑ろにしている「地道なコミュニケーション」で乗り越えていくほかなかったはずだ。言うまでもなく日本は民主国家だ。だが、無軌道な多数決主義や、無関心層の拡大など、今日ではその限界が指摘されることもある。民主主義などという呼び名がまだ生まれていない時代、農村地帯で自然発生的に生まれた分水という仕組み。改めてそこに目を向けた時、気づかされることは少なくない。

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