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石巻水田サポート 2018/8 独自の判断で時期を調整する田植え JP EN

東北の地図を見ると、山塊ばかりの列島を縦に割くように、仙台あたりから真っ直ぐ北に平坦な土地が延びています。そして、その平坦地を南北に、中骨のように、北上川が流れています。北上川は、平安時代の頃、伝説の英雄に率いられ鍛えられた蝦夷の兵団が、侵攻する朝廷の大戦力に対し、勇敢な防衛戦を展開したとき、その要衝であった大河です。この大河に沿って、宮城県から青森県にかけて点在する地名には、いにしえの戦闘で、武将の館となった村落や、砦を築いた山々の名残が幾つも見出されます。壮大な、東北の歴史の名残です。しかし教科書にはほとんど出てこない。「勝者が歴史を書く」という言葉がありますが、敗れた者の歴史は歪曲され抹消される。この地には消された歴史が如何に多いことか。今回の石巻行きで、生産者の方から、そんな趣旨のお話を伺いました。
そういえば、民衆の信仰においても、中央が自身の信奉する神を普及させ、地域に古くからあった神社を排除していったというようなことを柳田国男が書いていたと思います。

そして今、ササニシキに思いを馳せます。
かつてコシヒカリと人気を二分したササニシキですが、栽培が難しいこの米は、今は生産する農家も少なく、幻とまで言われる米になってしまいました。
一方で、効率優先の現在、農薬や肥料を使わない(化学肥料はもとより、有機肥料さえも使わない)、自然栽培をする農家は希でしょう。
そうなると、「ササニシキ」を「自然栽培」で育てる農家「田伝(でんでん)むし」はいよいよ希少な存在だと言わざるを得ません。この農家はササニシキを未来に残すために限りない努力を続けています。例えささやかでも、これは歴史を刻む努力です。

当社は、1年くらい前に、石巻の自然栽培米農家「田伝むし」の木村代表から相談を受け、地域で共同利用できる施設の導入に寄与できるならと、支援を始めることにしました。田伝むしとは、当方が東日本大震災復興支援プロジェクトに関与した時期に面識ができ、この農業者の米作りに対するこだわりと試みには共感していたため、支援をするという判断にそれほどの迷いはありませんでした。

さて、田伝むしでは、苗づくりの段階でも、農薬や肥料は使いません。それで田植えの頃の苗は普通の農家のそれより幼苗さが目立ちます。その幼苗を、普通の農家より少し遅い時期に水田に植えます。最適な気温の時期に出穂を迎えるようにする工夫です。
しかし、田植えの時期が遅いと気温が高くなっているので水田には「ノロ」と呼ばれる藻が発生しています。アオミドロのことでしょう。このノロが風に吹き寄せられて畦に近く漂って来ますが、幼苗に覆いかぶさってその成長を阻害するそうです。農家はノロを除き畦の上に捨てる。田んぼのアクとりです。

こうして、田伝むしの田んぼではお盆の頃に出穂期を迎えます。
普通の農家が7月20日頃ですから、一か月近く遅い出穂です。微妙に気温が違う時期に出穂する。代表の木村さんに言わせると、不良米(乳白粒といってデンプンの蓄積の少ない米)の発生を、これで予防するそうです。

田伝むしでは、木村さんのご両親が1987年(昭和62年)から農薬や化学肥料を使わない米の栽培を始めたそうです。木村さんが継いだのは2005年(平成17年)とのことです。 田んぼによっては20年、30年と無農薬農法を続けてきている。そんな田んぼには今も、ザリガニやカエルやオタマジャクシがちゃんと生息しています。

夏期は稲も伸びるが、雑草も伸びる。既に田伝むしの雑草との格闘は始まっています。
6月9日に、都会の子供たちを招いて田植えイベントが行われましたが、そしてこれは、田伝むしが水田の魅力を次世代に伝える継続した努力の一環ですが、その際に植えた幼苗が、7月17日に伺うと、ノロに押し潰されることもなく、しっかり生着して成長を始めていました。その水田の景色の中で、畦道の雑草は綺麗に刈り取られています。 田伝むしの稲刈りは10月後半。生産者としての苦労はまだしばらく続きます。

ところで、田伝むしに紹介されて、ここのササニシキを使っている寿司屋を、神奈川と大阪に訪ねたことがあります。当方べつに舌が利く訳でも目が利く訳でもないので、料理の論評は不可能ですが、いずれの寿司も、御馳走様と言って店を出てからしばらく歩くとまた戻りたくなる、あと味の良い寿司でした。ずっと付き合っていきたいあと味。そのネタとシャリの握り合わせは、「君子の交わりは淡きこと水のごとし」。希少な米ササニシキは、これだから、さっぱりした食感を慕う寿司屋さんに重宝されているんだなと感じた次第です。以下に、その寿司の艶姿を少しだけ写真でお裾分けして、本稿を終わりたいと思います。

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